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2014年5月14日(水)

【考えないことの楽さ、そしてその代償(2)】

Theme:Rintaro

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考えないことの楽さ、そしてその代償(2

(前回の続き)

考えない、と聞くと、何やら意図的に自分の思考を停止させることのように聞こえるが、実は我々が日々の生活において常に行っていることだ。目的意識を持たず、惰性で、とりあえず何かを来るがままに受け止め、それを行う。買い物に然り、仕事に然り。それが何なのか、一抹の疑問も持たず、「ただ~だから」という理由だけで同じことを繰り返す。

 勿論何の利点もないわけではない。規則に従って行動すれば大方予想のつく結果を期待できるわけであり、それを道標に日常は成り立っているとも言える。例えば蛇口をひねれば水が出てくるのはほぼ間違いないわけで、毎回水が必要なときに「この蛇口は、今日は水を出してくれるだろうか」とわざわざ疑問に思うことは少ないだろう。

 その一方で、本来意図された目的を果たすことができずに、ただ大勢の人間が習慣として守っているがためにいつまでも存在する不利益なルールがある。ふとその有益性に疑問を感じても、周りが全て「だってそうだから」と口にすれば、自身のちょっとした勘違いとして頭の奥底にやってしまうだろう。水面は穏やかに見える。そこにわざわざ石を投げ入れて波立たせる必要はないように感じる。

 ただ、自分がそうやって感じた疑問をそこでどこかに押しやってしまうのは、Ayn Rand が言った“suspend your faculty of independent judgment “(他者からの影響を受けずに独自の判断ができない)にあたる。これに慣れてしまうことを僕は危険だと感じる。他人に自分の思考を任せるのは楽である。ただその代償は? 病魔が体を徐々に蝕んでいくかのように、他人という無関係な思考が自分の意識を侵食していくことではないのか。そこに個は存在しない。他者と「なんとなく」合意した、有益なのかさえ疑わしい何かしらの共通項に結ばれ、行き先も見えずただただ漂うだけの人間となる。こういった人間は必ずこんな言葉を口にする。「だってそれが決まりだから。」「だって~がそう言っていたから。」自らの思考をとうの昔に停止させたことを公に認めていることにも気づかず、決まり文句のように自分の動機(それは既に動機でさえないが)をそう説明するのだ。僕はそういう人間にはなりたくない。

 

 
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